皆さんは、日本の漫画文化を大きく発展させた「トキワ荘」をご存知でしょうか?
そこでは「漫画の神様」と呼ばれる手塚治虫先生をはじめ、著名な漫画家たちがお互いに切磋琢磨しながら暮らしていたとされています。
この記事では、漫画の歴史を語る上で絶対に欠かせない「トキワ荘」とそこで暮らしていた漫画家について解説しています。
彼らが描いた作品も紹介しているので、気になる方はぜひ読んでみてください。
『トキワ荘』とは?
トキワ荘は、日本の漫画文化における重要な場所です。
数多くの名作を生み出した手塚治虫先生をはじめ、後に巨匠と称えられる偉大な漫画家たちが若手時代を過ごしていた創作の拠点であり、現在では「漫画の聖地」と呼ばれています。
その背景には、トキワ荘の住人だった寺田ヒロオ先生が「互いに励まし合いながら切磋琢磨できる環境をつくりたい」という想いがあったそうです。
しかし、入居するだけでも幾つかの厳しい審査条件をクリアする必要があったため、入居できた時点で漫画家の中でも選りすぐりのエリートだったのは言うまでもありません。
また、編集者側の視点で見ても「プロの漫画家が助っ人になってくれる環境」は喉から手が出るほど欲しかったのでしょう。手塚治虫先生の入居を皮切りに学童社の雑誌に連載を持つ多くの漫画家がトキワ荘で暮らしていました。
さらにその仲間やアシスタントが出入りするようになったのもあって、「マンガ荘」というニックネームまで付けられたことがあります。
トキワ荘で暮らしていた漫画家と彼らの代表作について
トキワ荘出身の漫画家は数多くいますが、その中でもとくに巨匠として名高い6人の漫画家とその代表作について解説致します。
気になる作品が見つかりましたら、ぜひ手に取ってみてください。
手塚治虫先生
言わずと知れた漫画界の巨匠にして「漫画の神様」と呼ぼれる偉大な漫画家です。
幼い頃から漫画が大好きだったようで、小学3年生の頃には「ピンピン生ちゃん」という漫画を完成させていました。小学5年生の頃に描いた長編漫画「支那の夜」は、友達だけでなく学校教師の間でも話題になるほど人気を集めていたそうです。
ちなみに手塚治虫先生のペンネームは、友人が持っていた「原色千種昆虫図譜/平山修次郎」から来ており、本書に載っていた「オサムシ」の図版を見て「治虫」にしたと言われています。
そんな手塚治虫先生の偉業と言えば、やはりいくつもの名作を残したことでしょう。
「鉄腕アトム」をはじめ、「リボンの騎士」や「新宝島」、「ジャングル大帝」に「三つ目がとおる」などデビューから死去するまで漫画を描き続けていました。
その中でも「ブラック・ジャック」は、同作者の「きりひと賛歌」と並んで医療漫画の基礎を創り上げた傑作です。
また、連載当時は人気が振るわなかった「どろろ」のように後年のアニメ化や映画化を経て、再評価されるようになった作品もあります。
同時期に複数の漫画を手掛けることも多く、1日の睡眠時間はたったの4時間ほどだったとか……。
寺田ヒロオ先生
寺田ヒロオ先生は、トキワ荘のリーダー的な存在だったとされる漫画家です。
後輩である藤子不二雄Ⓐの自伝漫画「まんが道」でも頼もしい理想的な先輩として描かれていることから、かなり面倒見が良かったのでしょう。
トキワ荘で暮らしていたときは、次々に入居してくる漫画家たちと「新漫画党」を結成し、合作や競作を発表するなどして意欲的に活動していました。
高校時代は野球部に所属していたのもあって、「スポーツマン金太郎」をはじめとした野球漫画が人気です。驚くことに試合の場面で中継アナウンサーがコメントを入れるようにした先駆けであるとされています。
また、不慮の事故で視力と記憶を失った柔道家を主人公にした「暗闇五段」は、1965年に「くらやみ五段」のタイトルでテレビドラマが放映されました。
1957年の結婚をきっかけにトキワ荘を退去したそうです。
藤子不二雄先生
藤子不二雄先生は、「オバケのQ太郎」や「パーマン」を生み出した漫画家です。
元々は藤本弘(後の『藤子・F・不二雄』)と安孫子素雄(後の『藤子不二雄Ⓐ』)の共同ペンネームであり、コンビとして活動していた時期の作品には「藤子不二雄」が使われています。
小学校からの付き合いだった2人は、中学3年生のときに手塚治虫先生の作品に強い感銘を受けて、漫画家を志すようになりました。
高校卒業後は就職するつもりでいましたが、卒業直前の春休みを利用して、手塚治虫先生の自宅に漫画を見せに行ったことがあります。見せた方も見せられた方もお互いに衝撃を覚えるエピソードだったようで、当時2人が見せた作品は、手塚治虫先生の手によって大切に保管されていたそうです。
トキワ荘で暮らしていた時にはすでに連載10本を抱える売れっ子漫画家だったものの、主な代表作はトキワ荘を退去してからのものになります。
先にも紹介した「オバケのQ太郎」は、「オバQブーム」と呼ばれる社会現象を巻き起こすだけでなく、「ギャグ漫画の藤子不二雄」として社会に広く認知されました。
石ノ森章太郎先生
石ノ森章太郎先生は、手塚治虫と対比するように「漫画の王様」、もしくは「漫画の帝王」と評される漫画家です。
ギャグ漫画から学習漫画まで幅広いジャンルで活躍し、様々な作品を生み出してきました。その中でも「仮面ライダー」をはじめとした、特撮シリーズは現代でも絶大な人気を誇っています。
トキワ荘で暮らしていた男性陣の中では、最年少かつ最も早く頭角を現した漫画家だったそうです。しかし、トキワ荘で石ノ森章太郎先生と同居していた姉を亡くしたことで、後の作風に大きな影響をもたらしました。
ちなみに石ノ森章太郎先生のアシスタントを経験していた永井豪先生曰く、石ノ森章太郎先生は「常人の5倍のスピードで描ける天才」と言われるほど速筆だったそうです。
それを裏付ける衝撃的なエピソードが藤子不二雄Ⓐ先生の自伝漫画「まんが道」に収録されているので、気になる方は是非読んでみてください。
赤塚不二夫先生
赤塚不二夫先生は、戦後におけるギャグ漫画史の礎を築いた漫画家であり、「ギャグ漫画」の王様と言われています。
トキワ荘には、石ノ森章太郎先生を手伝う形で入居しました。
当時の赤塚不二夫先生は、少女漫画の単行本を3~4ヶ月に1冊描く貸本漫画家だったせいで自転車操業状態だったそうです。
将来を悲観して漫画家の廃業も考えていたようですが、寺田ヒロオ先生への相談や石ノ森章太郎先生との交流を積み重ねたことによって、後の作品に活かされるようになりました。
寺田ヒロオ先生と同じく結婚をきっかけにトキワ荘を退去し、代表作となる「おそ松くん」と「ひみつのアッコちゃん」の連載が始まりました。
1966年に「おそ松くん」がアニメ化され、その翌年には「天才バカボン」が発表されたことで、天才ギャグ作家としての地位を盤石なものにしたとされています。しかし、「天才バカボン」の連載が終了した後は、長いスランプに陥ってしまい、執筆稼働が縮小傾向に向かっていったそうです。
晩年にはアルコール依存症に苦しめられていたようですが、赤塚不二夫先生が生み出した作品はメディア化や展示などを通して、今後も発展していくことでしょう。
水野英子先生
水野英子先生は、日本における少女漫画家の草分け的な存在で、現代に残る少女漫画の基礎を築いた漫画家です。
手塚治虫先生が少女漫画に用いた表現を女性的な感性を加えることによって、新しい少女漫画の世界を創り出したとされています。
水野英子先生の登場以降、ほとんどの少女漫画が女性作家になった事実を見ても、漫画史における大きな節目を作った偉大な漫画家と言えるでしょう。
代表作である完全オリジナル長編「星のたてごと」では、それまでの少女漫画でタブー扱いされていた男女の恋愛を描きました。
また、18世紀末から19世紀初頭のロシア帝政時代を舞台にした「白いトロイカ」は、少女漫画で初となる歴史上の史実を扱った作品になります。
さらに主人公が男性として描かれた「ファイヤー!」は、ロックミュージックの複雑で強いメッセージ性が巧みに落とし込まれており、少女漫画の読者層を男女関係なく広げたことでも有名です。
トキワ荘の現在について
1952年に建てられたトキワ荘は、老朽化のため1982年に解体されました。
その後、バスとトイレ付きの新築アパート「トキワ荘」が建てられましたが、バブル景気の最中に地上げに巻き込まれてしまい更地化されています。
現在の住所には、日本加除出版の新館社屋があるそうです。
しかし、トキワ荘が完全になくなった訳ではなく、漫画を愛する人たちの協力もあって、南長崎花咲公園内に「トキワ荘マンガミュージアム」がオープンしました。
ここで紹介した漫画家たちのリアルな仕事場が見学できる貴重な場所です。気になる方は、ぜひ訪ねてみてください。
あとがき
トキワ荘は、日本の漫画史において語らずにはいられない漫画の聖地です。
トキワ荘で暮らしていた漫画家たちが生み出した作品は、これからも世代を超えて多くの人たちに愛されていくことでしょう。
そして、世界に羽ばたく漫画文化がさらなる発展を遂げることを願いたいと思います。